いま私たちに幼い三姉妹の幸せと生活の貧困をどのように想像することができるのだろうか。
監督はあえて子供たちに歩み寄ろうとする相互交渉的な撮影手法を選ばなかったのだろう。三姉妹の未来への声を掬い取ろうとするのでもなく、ただ淡々と彼女たちの無邪気な生を映像にとらえた。彼女たちの不安や孤独や苦しみがいやらしく演出されるのでもない。あの荒涼とした山々をありふれた日常として眺める三姉妹の姉インの瞳は、私たち大人の共感を素通りしてしまうかのごとく、あまりに素朴で優しい。だが、カメラと視線を交えることのない子供たちの視線の先にある世界が、とてつもなく想像し難い過酷な現実を私たちにつきつけているようだった。
この映画の舞台である洗羊塘村は、雲南省昭通地域の山中にある。雲南省は中国西南に位置し、北はチベット自治区、西から南にかけてビルマ、ラオス、ベトナムの三国と隣接する。山々が複雑に連なり、中国を代表する金沙江(長江)や東南アジア諸国にとって母なる大河と称えられる瀾滄江(メコン川)や怒江(サルウィン川)が流れる。全般的に森林に恵まれ、生命にあふれた生態環境と豊富な自然資源を有する。そんな雲南省のなかでも厳しい環境にある洗羊塘村一帯はもともとイ族が住む土地だった。元代から清代に西南部の少数民族に対して行われた「土司制度」や「改土帰流」の結果、中国東部から移民してきた漢族が主要民族となった。周辺にはいまもミャオ族の村落がある。
雲南省は近年まで後発地域であったが、1999年の世界園芸博覧会の開催を契機に、インフラ整備や国際社会における地理的資源的優位の再評価がなされ、「西部大開発」戦略を皮切りに、急速な発展を遂げている。
雲南における西部大開発の特徴は、「緑色経済強省」、「国際大動脈(大通道)建設」、そして「民族文化大省」の三大戦略にある。緑色経済とは環境保護を掲げつつ地理や自然資源を生かした産業開発を意味し、近年はダム建設が目立つ。国際大動脈建設とは中国と東南アジアや南アジアを高速道路や鉄道で結ぶ戦略であり、すでに昆明からタイなど隣国まで高速バスが運行している。民族文化大省とは、雲南に興味を抱く人ならご存知だろうが、多様な少数民族文化を観光産業に活かしながら伝統文化を保護・継承していこうという構想である。
急速な経済成長は都市景観の変化からも一目瞭然で、昆明市の都市開発は恐ろしいスピードで進んだ。歴史ある建築をためらいなく破壊してマンションやビルを建てたかと思えば、数年も経たずに区画整理のために更地に還してしまう。こうした様子を目の当たりにして、中国の友人はよく英語のChinaと漢語の「拆chiai」をかけて、「拆哪chai na ?」(どこを壊す?)、「拆了chai le !」(壊したぞ)と冗談を言っていた。
だが、経済発展の恩恵を受けることなくいまだに貧困にあえぐ農村は非常に多い。三姉妹の暮らす洗羊塘村一帯は中国でも最貧困地域と呼べるだろう。この土地で収穫される農作物のほとんどがジャガイモで、村人は牧畜業で生計を立てている。2007年まで電気がきちんと整備されず、村人はいまも井戸水を使っており、灌漑施設の設置すらできない。
2011年の当局の統計によれば、約80戸、470人強の洗羊塘村の一人当たりの年間純所得は平均1700元(24,990円※1元=14.7円)ほどとされる。その貧しさたるや、饗宴の後に大人たちが火を囲みながら毎年10元の医療保険費を議論するシーンを思い浮かべて欲しい。払えない村人には強制的な現物徴収もありえるという一言が、大人たちの不安を掻き立てた。
収入を得るための有効な手段として出稼ぎがある。しかし、父親は400キロ以上離れた省内の地方都市に赴いたにもかかわらず、出稼ぎは失敗し、町で知り合った女性とその子供をつれて村に帰ってきた。現金収入があっても都市生活は出費がかさむ。家族と別れてなお倹約生活を送らねばならない出稼ぎがどれほどつらいものだろうか。
映画は三人の姉妹の日常を追うものだが、なぜこの父親に三人も子供がいるのか不思議におもわれた方もいるだろう。中国には人口増加を抑えるために実施されている「計画生育」、俗に言う一人っ子政策がある。ただし、この政策内容は地域によって異なる。農村部や少数民族地域では二人あるいは三人の子供を生むことが許されるが、規則を破ると罰金が課せられる。
政策宣伝はかなり徹底しているはずだが、問題は政策に反してでも男子が欲しいという伝統観念である。特に農村の漢族社会では、男子は労働力であり、家の跡継ぎとなり、そして「福」をもたらすという考えが根強い。この村に適用される規則の詳細は不明だが、おそらく夫婦につき二人まで出産が許可されているのだろう。父親は次こそ男子が欲しいと願ったが、結局三人の女子を授かったのかもしれない。罰金を払うことすらできない貧困を逆手に、せめて幸運をもたらす男子が欲しいと願う。友人の話では、こうした状況は現在も珍しくないという。
山地の農村開発は困難を極める。雲南省では同様の条件で暮らす山地民の生活問題を解決するために、早くから低地に全村移住させる政策が実施されてきた。この村もすでに全村移住と移住先が決定しており、現在とある有力企業が政府に多額の寄付金を出している。これを一般企業と政府の癒着と見るかは別問題だが、将来的に村人たちにはコンクリートづくりの一軒家と農地があてがわれる。無論、移転後の村人たちは新しい環境で生きるための様々な技術や知識を学びなおさなければならない。
私は人類学者として雲南の豊かな自然に囲まれた盆地に住むタイ族の伝統芸能を研究してきた。バスを乗り継ぎ、車窓からどこまでも続く山々を眺めたとき、通り過ぎる村にどんな芸能が伝えられているのかと思いをめぐらせたものだった。私にとって、そして多くの観光客にとっても、名も知らぬ山村はただ通り過ぎる風景でしかないだろう。
私の手元には、そんな山奥で1998年秋に撮影した幼い子供たちの写真がある。雲南に留学したとき、私は雲南芸術学院の張興榮教授に同行し、助手として少数民族の伝統芸能の記録を手伝った。道なき道を役人が手配した古いジープで進み、途中から徒歩で山を歩いてある民族の村に行った。私たちは遠方からの来客としてもてなされ、若い男女の掛けあい歌や弾き語りを聴いた。私は感銘を村長に率直に伝えたが、彼の一言が胸に突き刺さった。「お金もないし、食べるもの、着るものにも困る生活で、伝統を守る余裕なんてありませんよ。」
私に感銘をくれたあの子供たちは、いま幸せに暮らしているだろうか。子供にはいかなる現実においても自分の居場所をつくって生きるたくましい想像力がある。映画のなかでは、そんな子供たちの無垢な生命力から醸し出される情緒が、どことなく漂う現実の悲壮感を飲み込んでくれていた。
三姉妹はこれからどのように現実と向きあい、成長していくのだろう。私たちに、彼女たちのどんな未来を想像することができるだろうか。
1)土司制度とは、主に西南部の少数民族の酋長を「土司」として統治権を与えるかわりに、朝廷に朝貢させる王朝の間接統治制度。改土帰流とは、一部の土司制度を廃止し、朝廷から官僚を派遣して直接統治する制度的転換のことである。
伊藤 悟(いとう・さとる)
国立民族学博物館外来研究員。専門は文化人類学、映像人類学。民族楽器演奏家。雲南、東南アジアのタイ族の音文化や生活のなかの芸術について研究している。2012年、第6回モスクワ国際映像人類学映画祭にて短編映画が新人部門最優秀作品賞を受賞。