始まりはとても単純なことだった。このプロジェクトは、フランスのポンピドゥーセンターからコミッションワーク* 1としてパフォーマンスの委嘱を受けたことからスタートしたんだが、その際唯一の条件として提示されたのがフランスに関する主題を選ぶということだったんだ。ルイ14世を主題に選んだのは、僕がサン=シモンの「回想録」が好きだったから。特に「回想録」の晩年の数年間の記録が好きだった。それでこれを取り上げてはどうか、やっていけない理由はないと思ったんだ。またパフォーマンスの委嘱を受けた当初から、ジャン=ピエール・レオに参加してもらうというアイデアもあった。彼を知る友人が、ジャン=ピエールはこういったパフォーマンスをしたことがないから興味を持ってくれるのではないかと提案してくれたんだ。
「回想録」は日記のように、毎日のことが実に具体的に書かれている。だから演出は簡単だし、コンテンポラリーアートのパフォーマンスでそれを行うという考え方も気に入ったね。つまり15日間、古い時代の衣装を身に着けたジャン=ピエール・レオが入ったガラスの箱がポンピドゥーセンターのホールに宙吊りにされ続ける。その箱の中で死にゆくルイ14世を他の人たちが見るという形だ。ポンピドゥーセンターという超現代的な建物の中で中世の衣装をつけたルイ14世がガラスの箱に入って横たわっているというコントラストがすごく面白いと思った。だけど具体化するにつれ安全の問題が生じて予算が50万ユーロを超えてしまい、結果として相互に合意をしてそのパフォーマンスは中止することになってしまった。
それから3年後、この映画のプロデューサーがあの時のパフォーマンスのアイデアを映画にしてはどうかと提案してきた。それで最初にパフォーマンスとして考えたアイデアそのままを映画にすることにしたんだ。つまり古典劇のように三単一の法則* 2を守るということだ。パフォーマンスと同じように時間を15日間に限定し、他の主題を取り扱わず別の登場人物が登場することもなく、中心人物は一人で、寝室の中だけで物事が起きる。それは言ってみれば昆虫学者が虫を観察するようなやり方だね。昆虫や動物を観るように観察を行うことで、バロックの美意識、誘惑的かつ造形的な美学とのコントラストが生まれる。そのコントラストがこの映画の独創性を作ると思ったんだ。
僕はジャン=ピエールのことがすごく好きだし、素晴らしい俳優だと思うが、それほど神話的な存在としては捉えていなかった。好きなフランスの映画監督は何人かいるけれど、元々フランス映画よりもイタリア映画により大きな影響を受けてきたから、彼に対して敬意は持っているものの神話的な崇拝はしていなかったんだ。
ジャン=ピエールには心理的に不安定なところもあった。彼は年をとっても若者であり続けようとする一方で、若者を演じ続けてきた過去から逃れたい、現代の映画の中に自分の場所を見つけたいと考えていたようだった。でも気分的に落ち込んでしまって、そうした気持ちが保たれない時がある。過去から逃れ、現在の映画において現代的なものとして存在したいと強く考えているのに、過去の自分が重圧にもなっている。偉大な俳優として長い時間培ってきたイメージを壊したくない、過去のイメージを壊さないために悪い演技をするわけにはいかないという思いもあったんだろう。彼の中ではそうした巨大なプレッシャーと、映画の中に現代的なものとして存在したいという思いが混在しているような印象を受けた。
幸運なことに僕とジャン=ピエールの間にはルイ14世という素晴らしい媒介があった。ルイ14世という存在が魔法のように開く扉になり、問題解決への鍵となってくれたんだ。ジャン=ピエールには少し誇大妄想というか気にしすぎるところがあって、撮影に入るまでにルイ14世に関する本を読んでたくさんの情報を集めていた。宮廷の問題だとか、ルイ14世の遺言、当時の国家や経済について、あるいはこれまでどんな俳優が太陽王(ルイ14世)を演じてきたかといったことなど、様々なことを調べていた。そうやってルイ14世のことを考えることで、彼の頭の中にある過去の自分の神話から気を逸らすことができたんじゃないかと思う。
僕の現場では3台のカメラを使っていて、モニターもないから、どのカメラに何が写っているのかがわからない。またセットは全体的に暗く、カメラマンたちはそれぞれ自由に動くことができるから、ジャン=ピエールはどのカメラが何を撮っているのかがわからず、最初の数日はかなり混乱していたようだった。彼が心理的に混乱し、内省的になっていったことは完成した映画でも見て取れるし、僕はその内省的な側面がルイ14世のものとしてあると思っている。つまり混乱状態にあるけれども、死を目前にした苦痛とともに次第に内省的になっていく様が国王のものとして捉えられる。ジャン=ピエール・レオという俳優が撮影システムに対して起こした混乱が、国王が死に対峙する混乱、苦しみとして出ているように思う。
その後、ジャン=ピエールは3台のカメラがあるという状況に少しずつ慣れていった。撮影が始まって4日ほど経った頃だった、彼の頭の中にあったルイ14世に関する様々な情報が魔法のように彼の表情、国王の表情に反映されるようになったんだ。映画において発展させることができなかった他のテーマまでもが、国王の顔に反映されるようになっていった。そのおかげで映画を観る人々は、死に向かうルイ14世の思想が複雑であるように感じることができると思う。映像において、ものを考えている人の顔ほど美しいものはない。しかも俳優の頭の中にあることが、単に脚本から得ただけの、ありふれた考えでないときは本当に美しい映像になる。
また、ジャン=ピエール・レオは決して悲劇的ではなく、むしろ軽さを持った俳優だ。僕はそれを利用して死の陳腐さも描くことができたように思う。死が陳腐なものであるということでこの映画は現代的なものになっている。もし国王の死をドラマチックなもの、精神的なものとして描いたら、単なる歴史ものの映画になってしまっていただろう。ジャン=ピエールがああいう存在であるからこそ、宮廷の修辞の陳腐さ、死の陳腐さを出すことができたと思う。そもそもドラマチックな俳優であれば、あんな陳腐な死に方をする役は受け入れなかっただろう。また、彼の演技自体も一歩間違えば陳腐なものになってしまうギリギリのところにあり、イコンと陳腐さを分ける細い糸の上で演技をしているようなところがある。そうした混在性が一体となった結果、実にうまくいって、死を現代的に描くことができたような気がしている。
3台のカメラを使っているのは俳優のインスピレーションをカメラが捉えられるようにするためだね。僕は映画の仕組みや技術、映画というマシン全てが、俳優のインスピレーションに従属すべきだと考えている。だから常に俳優を追い、いつ俳優にインスピレーションが湧いたとしてもそれを捉えられるようにしなければならないと思っている。俳優には完全に自由にしてもらって、それを昆虫学者のように観察する。その人のインスピレーションがいつ湧いたのか、どの方向から来たのかを見るわけだ。そして俳優に良いインスピレーションが来たら、それに従って映画全体のコンセプトを変えることも厭わないよ。例えばある俳優がしかめっ面をしたのがとても良かったとしたら、脚本ではそういう表情する人物のように書かれていなくても、その人物をしかめっ面をする人物に変えてしまう。つまり僕は俳優のインスピレーションを倒錯的に利用しているんだろうね。僕はプロフェッショナリズムを信じないし、俳優に何も求めない。僕が俳優の身体や精神の中にあるものを明らかにすることが重要なのであって、俳優が意図的にもたらそうとするものはあまり重視していない。
別の言い方をすれば、簡単にクリシェ(紋切り型)に陥りたくないということでもあるね。筋が明らかで完全に閉ざされた空間を捉えながらも、その中で柔軟に動きたい。すなわち厳密で規則正しい形であるのを好むと同時に、僕の中にはアナーキーなもの、楽しいものを限界まで突き詰めてしまうところがある。その矛盾する二つの要素が合わさって僕の方法や個性は作られている。僕は撮影中に起きることに対して絶えず開かれ、直ちに反応できねばならないと思っている。一方で撮影しているシーンの全ての情報を集めようとはしない。つまりカメラの前で起きていることを見るときは台詞を聞かないようにして、逆に台詞を聞くとき、その対話で何が話されているかを聞くときは、背を向けて起きていることを見ないようにしているんだ。そういうふうに僕は全部の情報をわざと把握しないようにしている。そこから緊張が生まれ、紋切り型を避けることができると思う。起きていることに対して全てを理解して明白に反応してしまうと、有名な登場人物を据えた歴史ものというジャンルのクリシェが表われてしまうからね。
だから僕は撮影中に絶対にモニターは見ないし、どの位置からどう撮影するかについても撮影監督に任せっきりで、映像を見るのは撮影が終わってからだ。もちろんどの場所にどういう人を置くかとか、小さい映像が頭の中に浮かぶことはあるけれど、実にシンプルに自分で何か新しいものを発明するという考え方から映画を作り始める。映画を考える上で僕が戯れる素材は人間だ。どの人を操作すればどのような雰囲気が出てくるのか、具体的な空間の中でどのように人を操作していくかということを考える。身体の持っている誘惑力、そして一つの身体ともう一つ別の身体を置いたときにその二つの身体の対峙によって何が生まれるかが重要だ。僕にとって映画の演出の単位はカットではなくシーンだ。いつも人々がそのシーンの中で生きている。そうやって人間を素材にして映画を撮って、編集の段階でさらにその人々を操作し、彼らの動き、反応を豊かにしていく。撮影した映像の中にある人々の反応は編集によってさらに神秘的にすることができる。編集はひとつのクリエーションのプロセスであり、同時に撮影のときに生じた意味を破壊するプロセスでもあるんだ。
今回の映画の場合、古い時代を描くわけだからセットはもちろん、照明に対しても衣装に対しても細心の注意を払った。セットはフランスの南東部にある城の中に、5週間をかけて作った。20年ほど前に火事になった城で、部屋全体がセメントで塗り固めてあるだけだったけれど、その中の二つの部屋にセットを作って、ヴェルサイユ宮殿にある国王の寝室の雰囲気を再現しようとした。フランス人がルイ14世の寝室はどういうものか想像するとき、ヴェルサイユ宮殿の寝室を思い浮かべると思うけれど、ヴェルサイユ宮殿の寝室は現実ではない、作られた偽物だ。一方、僕の映画の中の寝室は作られた装置であるはずなのに本当の寝室に見える。それはその空間の中に有機性があるからだ。つまり、人間がその空間の中に完全に住みついて、その空間の中にある物を自分のものにしている。そうしたことであの空間に有機性が与えられ、本物に見えるのだと思う。俳優は演技をしていると映像に対して何かを与えようとして、周りにある現実の物とのコンタクトを忘れてしまいがちだが、僕の撮影の場合は俳優に自由に動いてもらっているから周りの物と有機的にコミュニケーションがとれる。映像を見ると僕の映画のあの空間は生きて命に満たされていることがわかる。僕はこの映画を撮り終わった後でヴェルサイユ宮殿に行ったが、実際のヴェルサイユ宮殿の国王の寝室のほうが偽物に見えた。ヴェルサイユ宮殿はまるでディズニーランドみたいだった。僕にとって本物の寝室はこの映画の中にあるルイ14世の寝室だ。実際にルイ14世を捉えた映像は存在しないが、僕の映画の中では国王がチキンのショーフロア・ソース* 3を持ってきてほしいと命じ、それを食べるところを見ることができる。生きた、命のあるルイ14世が見られるのはこの映画だけだと思うよ。
この映画は過去について扱っているわけだけれど、僕は過去を現実として生きるような映画にしたかった。例えばもっと予算があれば実際にヴェルサイユ宮殿の中で撮影することもできただろうが、それでは過去を現実として生きることにはならない。もちろん当時の世界にあった美意識は尊重するが、僕はそれと同時に何かを創造したい。つまり過去を現実としてこの場で生きるという自由を出さなければならないと考えている。かつら一つを例にとってもそうだ。ルイ14世が描かれた肖像画を見ていると、年を経るごとにかつらの形状がだんだん変わっているので、ヘアメイク担当者と様々なルイ14世の絵を見ながら話し合ったんだが、その際ヘアメイクの担当者から、頭頂部の膨らんだ部分の形状を変えるのと肖像画と同じ形にするのとどちらが良いかと聞かれた。僕は形を変えたもののほうが美しいから完璧に似せようとしないでこちらにしようと言って、彼女が好んだ方の形状のかつらを作ってもらった。ルイ14世のヘア係よりも僕のヘア担当者のほうが優れていたわけだね。このように歴史的な視点から見ると多少間違っていても、本当に生きているものを作りたかった。それが過去を現実として生きるということであり、生きるということは自由に選択ができるということだ。過去の映画を作るからといって、その自由を犠牲にしてはならない。
※セラ監督ロング・インタビュー全文はパンフレットに掲載予定
*1 クライアントからの依頼をもとに、場所や環境など様々な条件に応じた芸術作品を委託制作すること
*2 古典演劇における法則の一つで、「三一致の法則」とも呼ばれる。三つの単一(一致)とは「時の単一」「場所の単一」「筋の単一」を指し、つまり一日の間に一つの場所で一つの主題(筋)を扱うという原則。16世紀にアリストテレスの『詩学』に対する解釈の誤りから提唱され始めたと言われ、特にコルネイユやラシーヌ、モリエールなどに代表される17世紀のフランス古典演劇に多大な影響を与えた
*3 加熱調理した肉や魚などの食材を冷まし、クリーム系のソースと艶出しのゼリー(アスピック)をかけたフランスの古典的な宴会料理。ショーフロアの「ショー(chaud)」は温かい、「フロア(froid)」は冷たいという意味