制作ノート

本編の重要な部分に触れていますので
ご鑑賞後にお読みすることをお勧めします。
本作はドキュメンタリーではなくフィクション。監督が書いたプロットを元に撮影されました。出演者は、すべて撮影地に実際に暮らす村人で、自身と重なる役柄を演じています。
この度、日本公開に寄せ、チャン・ヤン監督自身に、チベットと、出演者達との出会い〜撮影までの制作ノートを執筆してもらいました。

1. なぜこの映画を撮ったのか

私とチベットとの縁は、1991年の旅に始まっている。その旅で、チベットに強く惹かれるのを感じ、その後、大学を卒業してから、しばしばチベット地区に出かけてドキュメンタリーを撮った。1998年、劇映画『こころの湯』の1シーンはチベットのナムツォ湖で撮影したものだ。そして2007年には、チベットに関する映画を撮ろうとすでに決め、車を運転しチベット各地をほとんど走破した。
いつもチベットに行くたびに、巡礼する様々な人々に出会い、その人たちと接する多くの機会を持った。チベットの巡礼の人々についての物語を撮ることは、心のうちで長年ずっと思い続けてきたことだった。

2. 撮影クルーの成立

チベットで1年間、撮影するとなれば、低予算のアートフィルムにとって、ベテランのカメラマンやラインプロデューサーの高額のギャランティは、とても負担できない話だった。今回、スタッフとして参加してくれたカメラマンのグオ・ダーミンとラインプロデューサーとは1、2年前に、数本の短編を一緒に撮って成功していた。グオ・ダーミンはとても優れたカメラマンだが、当時はCMが中心で映画は手がけていなかった。だが、彼の技術は素晴らしく、彼はまた、チベットでの映画撮影は得難いチャンスだと言ってくれた。ラインプロデューサーも同様の事情でうまく話がまとまった。こうして、2人の参加により、この映画は動き始めたのだった。

3. ロケハンの道程

おおよそのストーリーと人物設定については、相当長い時間をかけてプランを練っていた。――まずは、70〜80歳ほどの老人が1人。この男(あるいは女)は巡礼の途上で死を迎える。そして、妊婦の存在。彼女の赤ん坊は巡礼の途上で生まれる。また、家畜の解体を生業とする男。彼はあまたの殺生を行ったがために、巡礼をして贖罪をしたいと願う。そして、7、8歳の女の子。それから、16〜17歳の若者。彼はおそらく不良少年、もしくは、青春期のデリケートでシャイな男子だが、巡礼で出会う様々な事に感化され、徐々に変化をとげてゆく。それから、50歳ぐらいで、人間的に成熟した落ち着きのある男、つまり舵取りのような役割を果たす人物が必要だった。この人物が巡礼チームのリーダーとなるはずだ。

私は、ロケハンの土地を訪れるたびに、この構想の基本路線に沿って、そのような人物がいないかどうかを探しつづけた。われわれはまず雲南省の大理からシャングリラへ行き、そこから車を走らせてデチェン(徳欽)に向かい、そこから方向を転じて四川省のチベット自治州に入った。そこからバタン(巴塘)を経由してチベット自治区に入り、マルカム県プラ村を通過するさいに、8、9戸の人家しかない小さな集落に着いた。そして、村の入り口で車を下り、座っていたときに、ツェワンを目にしたのだ。

4. マルカム県プラ村での奇跡的な出会い

ツェワンの印象はとても強烈だった。そして奇跡的なことに、ツェワンの一家を突破口にして、映画の中の配役とすべて出会うことになったのだ。

1. ニマの家族
①ニマ:

この一家の長、50歳(*2013年当時の年齢。ほかの人も同様)。ツェワンの舅(しゅうと)。父親が亡くなったばかりで、家ではまだ法事が行われていた。ヤンペルは叔父。

②ヤンペル:

70歳。兄が健在だった頃、兄弟は巡礼に出ることをひたすら願っていた。

2. ケルサン一家
○ガワン・ケルサン:

この一家の長。妻との間に6人の娘をもうけるが、うち1人は夭折。巡礼チームには参加していない。ツェリンとセパの息子が誕生した際の、病院のシーンに登場。

○ワンチュク:

ケルサン家の祖父。酒好きで、若い頃によその土地に出かけて暮らしたこともある。ヤンペルとは仲がよいが、巡礼のチームには参加していない。冒頭のヤンペルの放牧シーンに登場。

③ツェリン:

ケルサン家の長女、24歳。学校に通ったことはない。われわれが彼女に会ったときは、すでに妊娠6カ月前後だった。ケルサンには息子がいないので、ニマ家の次男を入り婿にするつもりだったが、その若者は頑として承知せず、結局、他の家からセパを婿に迎え入れることになった。

④セパ:

ツェリンの夫。ケルサン家の入り婿。

⑤ツェワン:

ケルサン家の次女、ツェリンの妹、19歳。学校に通ったことがなく、中国語は話せない。下には三人の妹がいる。当地ではまだ一妻多夫婚の伝統を残しており、ツェワンは16歳のときに、隣家のニマ家の三兄弟に嫁いだ。

○テンジン・テンダル:

ツェリンとセパの息子。巡礼の途中、マルカム県ルメー鎮の病院で生まれた。われわれの映画は、この子の誕生から巡礼の終わりまでの成長の過程をそのまま記録している。おそらく映画史上、最年少の出演者と言えよう。

⑥ダワ・タシ:

セパの弟。

⑦ワンギェル:

ツェワンの伯母の息子(=従弟)、ケルサン家の甥。

3. ジグメの家族
⑧ジグメ:

この一家の長。かつてはトラックを購入して運送業をしていた。様々な経験をして世間の事をよく知っている。だが数年前に、自宅の新築工事の際に、事故で2人が死んだため、20〜30万元の賠償金を支払い、家もまだ未完成のままである。妻のムチュとの間に、1男2女をもうけている。

⑨ムチュ:

ジグメの妻。

⑩タシ・ツォモ

※劇中ではタツォというニックネームで呼ばれる少女

ジグメとムチュの末娘。

4. ワンドゥの家
⑪ワンドゥ:

家畜の解体を生業とする男。弟と妻を共有し、2人の子どもがいる。ジグメとは仲が良い。酒飲みで、脚に少し障害がある。

*編註 巡礼に参加した村人にマル数字。テンジン・テンダルは旅の途中で生まれたので番号はふっていない。

村に着いて、通訳を介して聞いたところ、ツェワンの家の事情が分かってきた。――家族内で最も年長なのが祖父のワンチュクで、家長は父親のガワン・ケルサン、家には6人の娘が生まれたが、1人は夭折している。長女のツェリンは入り婿のセパと夫婦である。次女であるツェワンは、隣家のニマ家の3兄弟に嫁ぎ、ほかの妹たちは町の学校に通っている。
またニマ家では、父親が1カ月余り前に死去し、家ではまだ法事が行われていた。ニマと叔父のヤンペルに会ったとき、私の思い描いていたイメージにピッタリだと感じた。そして、再びガワン・ケルサン家に戻ると、ちょうど家族全員がそろっていた。そこでツェリンがちょうと妊娠しているのを知り、嬉しいサプライズとなった。というのも、私が構想していた人物設定のコンセプトからして、この両家からキャスティングできると思ったからだ。
その後、ジグメの娘である少女タツォに出会い、家族と相談したところ、ぜひ参加したいということだった。この家では、自宅の新築中に2人の死者を出し、多額の借金を抱えて途方に暮れていたところだった。われわれが現れたことで、彼らは希望を見いだし、これも菩薩様のお導きで、ご加護であると考えたのだった。だから、タツォとその両親の3人はすぐに決まった。そして、父親のジグメは、われわれが探し求めていた家畜解体を仕事にしている男の候補者ワンドゥに話をつないでくれた。彼の家はとても貧しかったので、撮影に参加することを強く望んでいた。

ガワン・ケルサンの家では、長女のツェリンと婿のセパは必ず参加するとうことだったが、本当は、私は自分がお金を出して家族の留守中に農作業や家畜の世話をする人を雇い、ガワン・ケルサン夫婦も一緒に行ってもらおうと考えていたのだが、ガワン・ケルサンはゾ(ヤクとウシの交配種)や羊が死んでしまわないか心配でならず、巡礼には参加しなかった。
ニマ家では、ヤンペルはぜひ行きたいということだった。彼自身、巡礼を望んでいて、劇中で描いたように、兄と自分の願いを叶えたいと思っていたのだ。だが、ニマ家は嫁のツェワンが同行することを望まなかった。しかし、彼女はなんと言っても、ケルサン家とニマ家を結びつける絆であり、しかも彼女の姉・ツェリンが道中で出産となった場合、ツェワンがいれば、手助けすることができるので説得し、参加することになった。

こうして、いつの間にか、撮影チームの陣容がほぼ整ってきていた。そのときセパが、家でぶらぶらしている弟がいるが、一緒に行けないかと言ってきた。その思いがけない申し出を聞いて、私は驚きを禁じ得なかった。実のところ、われわれはずっと17〜18歳の若者を探していたのだが、ほとんど諦めかけていたところに、突如、そういう若者が登場してきたのだから、まさにサプライズだった。それから、ツェリンの従弟で、腕に少し障害があるが、行きたいということで会ってみたところ、とてもいい感じの少年で、みんなで行こうということになった。
私が頭の中で描いていた人物たちは、あちこち探して、7、8カ所の村を訪ね歩いてどうにかかき集められるだろうかと考えていたのだが、まさか1つの村で全部解決できるとは予想もしなかった。われわれクルーにとっては、大いに手間が省けて大助かりだった。

そういうわけで、最終的に旅に出た巡礼チームのメンバーは、ニマ、ヤンペル、ツェワン、ツェリン、セパ、ジグメ、ムチュ、タツォ、ワンドゥ、ダワ・タシ、ワンギェルの11人となった。

5. 撮影/巡礼の準備

2013年の12月末から14年の3月にかけて、われわれは村に3カ月滞在した。その間、私とカメラマンは基本的にケルサン家に住み込み、食事もまかなってもらった。そして、ワンチュクおじいさんと酒を飲み、ニマの家にも行って世間話をしたりした。
実際のところ、何を撮ればいいのか私には分からなかった。ただ当時の私の方針としては、彼らがすることをそのまま撮影するということだけだった。牛(ゾ)を放牧するならそれを撮る、薪拾いならそれを撮るということだ。まずはドキュメンタリーの手法で彼らの暮らしのディテールを観察し、心に響いた場面については何度かくり返しやってもらうことにした。たとえば、村の家々では大麦酒(チャン)を造るのだが、酒をしこむときは互いに何かしら言葉を交わすだろうと想定し、夫婦に作業をしながら会話をしてもらった。

私はこの映画を、人物が画面に登場するやいなやドラマチックな雰囲気が生まれるというようなものにしたくなかった。彼らの姿に生活そのものが持つ質感や本質が見えるようにしたいと思った。
もちろん、シーンによっては何らかの演出をして描くことは必要だった。たとえば、子羊が生まれるシーンでは、事前に役者たちにそのシーンの内容を伝えておき、あとはカメラをセッティングして待った。

6. 自分自身を演じること

村に滞在した3カ月の間(その間、村人と一緒に正月を過ごした)、最も重要な仕事は、出演者たちとのコミュニケーション手段を含め、この映画の本質を探り撮影方法を模索することだった。というのも、少女・タツォの父親であるジグメが運送の仕事で長距離を運転していたので少し言葉が通じる以外、他の人はまったく中国語が話せないからだった。  そのため、少なくとも2人か3人は通訳が必要になる。だが、この地域からはほとんど大学生は出ておらず、われわれの通訳をしてくれたのは専門学校に入学したばかりの学生2人で、中国語もそんなにできないので、私はおおよその意味を聞くことしかできなかった。

そこで、通常の撮影プロセスとしては、まず私が役者たちに大体の意味を話し、彼らがそれを会話の形にしていくようにした。そして、通訳が会話を私に訳し、もし内容が多すぎるようなら簡潔にし、漏れた場合は補足してやり直してもらった。
1テイク撮るたびに巻き戻して見て、通訳に全部訳してもらって希望通りのシーンが撮れたかチェックした。実際には、しばらく経つうちに、私は彼らの言葉のリズムや話し方に慣れてきて、大抵の場合、セリフの内容が間違ったりすると自分でも分かるようになってきたのだが。
こうした方法はとても面白いと私は思った。もし全くの他人を演じるとなると、彼らは身構えてしまって、どう演じていいか分からなかっただろう。だが、カメラの前で自分を演じるのであれば、負担には感じず、リラックスできるし、カメラの前での「生活」に早く適応できるようになる。初めの頃、ツェワンとタツォは少し恥ずかしがって、いつもカメラを意識していたので、たえず彼女たちにカメラを見ないように注意を促していた。ゆっくりと慣れていくことで、カメラは彼らにとって闖入者でも何でもなく、そこにあるテーブルや魔法瓶や、あるいは電球と同じように「普通の物」になっていくのに気づかされた。その頃には、彼らはすでにカメラの存在を「忘れ去って」しまい、カメラを前にしてもごく自然にいきいきと動いてくれた。それはまさに私が求めていた感覚であった。
たとえば、ニマともう1人の父親役のケルサン、この2人は特にのびのびと演じてくれて、カメラの前での2人の落ち着きぶりとリズム感は大変見事で、自然な演技だった。それを目の当たりにして、私は自分がとても幸運だった、この選択は実に正しかったと感じた。もし選択が間違っていて、一旦、巡礼の旅に出てしまったら、もう後戻りはできず、撮り直しも不可能だったのだから。監督の能力と感性は観察することにあると言われるのも、的を得ているかも知れない。

7. 撮影のプロセス

『ラサへの歩き方〜祈りの2400㎞』は私のこれまでのどの映画とも創作の仕方が異なっている。脚本がなく、おおよその構想が頭にあるのみだった。クランクインの前、頭の中には人物のイメージと特徴、そして巡礼の途上での様々な出来事――赤ん坊が誕生し、老人が亡くなるといった生と死の対比はすでに確定したプロットとして存在していた。だが、その他の内容はさほど具体的ではなく、撮影しながら考えていく必要があった。
もちろん巡礼について言えば、最も大事なのは五体投地をすることだ。巡礼の人たちのスタイルはまちまちで、五体投地の方式も巡礼をする人が心の中でどんなお経を念じているかで異なるが、五体投地をし続けてマルカムからラサへ1200kmを巡礼し、そこからカイラス山まで1200km行くにはどうしても1年以上の時間がかかる。われわれは、マルカムからラサまでの1200㎞は、途中の道程をはしょることなく、カメラに収めた。しかし、ラサからカイラス山までは、調整の必要があった。

撮影の過程で、何日も何を撮っていいのか分からないこともしばしばあった。そういうときは五体投地をする姿を撮るのだが、出演者たちは喜んで五体投地をしてくれた。私が先にエリアを決めてカメラをセットして、そこを彼らが行ったり来たり何度も五体投地をし、こちらがアングルを変えたり距離を変えたりして繰り返し撮影するという具合だ。

8. 巡礼者との出会いからのインスピレーション

ロケハンやキャスティングの段階から、われわれは十数組の巡礼者たちに出会ったが、そのたびに2、3日ずっと追いかけて記録映像を撮りつづけ、彼らの身なりや手板などの細部を観察してきた。休憩のときは、彼らと話をして、泊まる場所や食事などについてリサーチし実情を知るようにした。

通常、巡礼のグループには2、3人の世話係の人がいて、トラクターを運転して先に進み、適当な場所を探してテントを張り、キャンプの準備をして五体投地の人たちがやって来て休めるようにしている。だが、ラサ付近で出会った十数人からなる巡礼のグループでは、トラクターは巡礼者たちの後を追うように走り、運転手は40〜50歳の中年の父親だった。なぜ後ろを走るのかと私がその人に聞くと、トラックの多い道なので五体投地の人たちを護るためにそうしているという答えだった。そんな話をしているとき、たまたまトラクターの幌を掛けた荷台の方から、赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。まだ4カ月の赤ん坊だった。この巡礼者たちはすでに6カ月、五体投地をしているのだから、子どもは道中で生まれたということだ。だから、これこそが人の生きる様というもので、私が考えていた映画の設定と期せずして符合したわけだ。
出発した後も、多くの巡礼者たちと出会った。撮影に同意してくれた人たちの映像は、映画の中に入れることができた。また撮られるのを拒否した人たちにしても、彼らの物語は創作のインスピレーションをもたらしてくれた。

五体投地をする全ての人の背景を知ることはできないが、細かく観察してみると、映画の中に組み込める多くのものを発見できるのだった。それらは現実の生活から生まれたものであり、根拠のない作り事ではない。撮影の道中、実際に、巡礼者たちの生活の様々な面を大量に撮影して、撮りながら編集し、ストーリーの軸に沿うように整理し、不適切なものがあれば、とりあえず保留にしておき、正しい方向性を探っていったのだ。

9. 新しい撮影手法としての『ラサへの歩き方〜祈りの2400km』

私はこれまでの映画撮影では、まず完全な脚本を準備して臨み、撮影に入ればセリフについてのみ役者に適宜まかせたり、現場の状況でアドリブの演出も多少あったが、それも脚本の枠組みの範囲だった。今回の『ラサへの歩き方〜祈りの2400㎞』は私のこれまでの映画撮影とは全く異なり、制作方法も考え方も斬新なものとなった。  私にとっては未知数のことばかりで、この映画がどんな作品になっていくのか全然、予想もつかなかったし、次のシーンに何を撮るのかさえ分からないことが頻繁にあった。こうした未知こそが多くのチャレンジを可能にし、また多くのサプライズや意外な収穫ももたらした。

この映画はドキュメンタリーではない。ドキュメンタリーではかなりの部分で「待つ」わけだが、被写体に何かが起きたとき、撮影者はできるだけカメラをオンにしている必要があり、オンとオフの間で取捨選択をすることになる。どちらもじっくりと時間をかけねばならないが、ドキュメンタリーのほうがより傍観者であり、この映画では、監督である私が出来事の中に入っていく必要があった。そうしてこそ、意味のあるものを発見し判断を下すことができ、また同時に、思考の幅を広げ、素早くキャッチしたものを脚本家として映画の物語にはめ込んでいく。そして次に脚本家から抜け出し、今度は監督の手法で表現していくのだ。
このやり方を選んだことが、物語の方向性を明確に示すものとなっていった。つまり撮影のプロセスにおいて、意識的に取捨選択と再構築を行う必要があったわけだ。せっかく撮影したものも、映画の中に入れてみると良くなかったり、あるいは全体のリズムを壊してしまう、もしくは本質的にこの映画に合わないと感じたものは、何であろうと全て捨てた。
また撮っているときには使えるのかどうか分からない事も数々あったが、とりあえずカンに頼って撮っておき、次の場所へと移動した。たとえば、落石の場面に出くわしたら、それを撮っておいた。そういう事も巡礼の道では実際に起こるわけなのだ。トンダ峠ではよく雪が降るので、雪景色をとらえたし、ルランに着いたときはちょうど雨季だったので、雨のシーンを撮影した。事前に計画していた事も多々あったが、一方ではコントロールできない事も非常に多く、風を呼べば風が吹き、雨を呼べば雨が降るというものではなく、運に任せるしかなかった。

出演者たちも、こういう撮影スタイルに適応しながら進み、1つのシーンを撮り終わるごとに、できるだけ早く編集して彼らに見せた。自分たちが何をしているのか知ってもらいたい、映画が自分たちと関係ないと思わないでほしいと考えたからだ。撮影したものも彼らの生活の一部だと確認してもらう必要があったのだ。もちろん、旅の途上には、彼らが撮られたくない部分も多かった。たとえば、ニンティ付近にとても美しい山があり、たくさんのタルチョがはためいていたが、彼らはそこでの撮影を頑なに拒んだ。そこは彼らの宗教では神聖な山であるから、撮影もダメで五体投地もできないと言われ、宗教的タブーは尊重しなければならなかった。そのように彼らの生活習慣や信仰を尊重するという前提のもとで、互いに認め合う暗黙の了解を探る必要があった。とにかく、この映画の中で、自分たちが何をしているのか彼らに理解してもらいたいと思った。実際、彼らもまた創作者であり、監督に使われるだけの道具ではないということを。

10. デジタル時代だからこその映画

何作も経験していれば、映画を1本撮ることは決して複雑なことではない。しかし、なぜこの映画を撮るのかということは、非常に重要だ。この作品には脚本がないのだが、私の心の中にある表現したいものと最も密に結びついている。だから、今回の映画は可能性をさぐる意味合いを持っている。映画はこのように撮れるものなのかどうか、それは私にとって非常に大きな試みだった。

この試みは、技術の進歩と不可分だ。もし、フィルムの時代なら、絶対に実現できなかっただろう。撮影には、設備、照明、フィルムの現像等々、条件的にとても厳しい制約があっただろう。現在のようにデジタル化し、全ての設備や機器が少なくて済み、軽量化、小型化が進み、撮りながら編集ができる、そんな環境でこそ、こうした映画が完成でき、予算を低く抑えることなって、出資者の協力を得られるわけだ。それでは、将来、この作品よりさらに低い予算で再びこのような映画を撮るだろうか。その可能性は大いにあると私は思う。この映画が新たな考え方、新たな創作方法を示してくれたのだから。