2013年5月16日夕暮れ。辺田部落の移転地のひとつ、成田市西三里塚に建つ大きな家の門前に新しい死者を弔うための黒い花輪が並んでいた。これからお通夜がはじまるのだろう、喪服を身につけたひとびとがひとり、ふたりと集いはじめた。
「プロレタリア青年同盟の元女性リーダーだったHさんが……、自殺しちゃったんだってよお」
Hさんは辺田部落の農家へ嫁に入った元支援の女性だった。元空港反対同盟青年行動隊員の夫と力を合わせて空港反対闘争をつづけていたが、2006年4月に現在の場所に移転していた。
「移転したことがショックでうつ病になってたんだってよお。立派な家を建ててさあ、子どもも大きくなって幸せそうだったのに、なんで自殺しちゃったかねえ……」
2015年2月22日夜。東京都内で行われた『三里塚に生きる』自主上映会には、かつて空港反対同盟の農民を支援した若者たちが80人近く集まった。上映後、元プロレタリア青年同盟の幹部がぼくに近づき、問いかけた。
「映画のなかで柳川秀夫さんが “元支援の女性が自殺した”って言っていたけど、それは辺田部落の農家の嫁になったHさんのことだよね?」
「そうです」
「プロレタリア青年同盟はみんな仲が良くて、党派を解散したあとも年に一回みんなで集まっている。Hさんも毎年参加していたんだけど……」
移転した年からHさんは集まりに出なくなった。まもなく彼女から届いた手紙には「移転してしまって、同志に顔向けできない」と書いてあったという。Hさんは責任感が強い女性だった。
“あの時代”。1960年代から1970年代、社会の変革を求める若者たちがいた。彼らは国家権力と闘う農民を助けるために成田/三里塚へやってきた。警察機動隊との武装闘争、連合赤軍の仲間殺し、過激化したテロリズム、新左翼党派間の内ゲバ。さまざまな悲しくも残酷な行為の連鎖によって、1970年代後半に“あの時代”は終焉した。しかし、1980年代になっても空港反対闘争がつづき、若者たちが最後の砦を築いて立てこもった成田/三里塚でだけは“あの時代”が世紀をまたいで、2000年代まで燻りつづけた。
Hさんが自殺したのは2013年5月15日。家族からも孤立したHさんは、ついに「死ぬ」という手段でしか自分の闘争に終止符を打つことができなかった。どんな気持ちで成田/三里塚へきたのか?どうして反対農家へ嫁入りしたのか?なぜ自殺したのか?もう本人に聞くことはできない。ぼくはHさんのお通夜の場で「ひとりの責任感の強い女性の不条理な人生」に強い憤りを覚えた。この行き場のない憤りが、ぼくを新たな映画づくりへと導いたのだと思う。
誤解を恐れずに言うが、『三里塚のイカロス』は“あの時代”にけりをつけさせるための映画、ちゃんと死んでもらうための映画である。時代の悪霊となってこの世を彷徨うのはもうやめてくださいよという……。『三里塚に生きる』の冒頭にかかげたエピグラフ、ヨハネによる福音書第十二章第二十四節を改めて思い出している。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」。
この映画に登場する元新左翼の活動家のなかに、自分たちのことを黒澤明監督の『七人の侍』の登場人物になぞらえるひとがいた。反対同盟の農民を助けた若者たちは、盗賊軍団から百姓たちを、そして彼らの村を命がけで(四人の侍が死んだ)守った七人の侍だというのだ(確かに、成田/三里塚でも多くの若者が死んでいる)。そして、『七人の侍』のラストシーンで勘兵衛演じる志村喬が口にする決め台詞を暗唱するのである。「勝ったのはおれたちではない……。あの百姓たちだ」。
成田/三里塚の空港反対闘争で勝ったのは、国家と上手に和解し、高額の補償金を手にして移転した農民なのだろうか?空港は建設されたのだから、国家が勝ったのだろうか?農民を助けた“あの時代”の若者だけが負けたのだろうか?そこにあるのは勝ち負けなのだろうか?その答えを見つけるために、ぼくはこの映画を作った。