背 景
BACKGROUND

反右派闘争とは

1949年に建国された中国共産党主席・毛沢東の中華人民共和国は、56年にソ連でスターリン批判が始まったことも契機となり、「共産党への批判を歓迎する」と「百花斉放・百家争鳴」と呼ばれる運動を推進。 これ以後、知識人の間で党に対する批判が出始めるようになった。しかし、57年6月、毛沢東は人民日報に「右派分子が社会主義を攻撃している」という社説を掲載し、突如、方針を変更。共産中国(左派)に反する者を「右派」と呼び、党を批判した人々を容赦なく粛清する「反右派闘争」を開始した。右派とされた人々が送られた再教育収容所では、ちょうど59年から61年にかけての大飢饉の時期と重なったため、多くの死者を出した。78年以降、党は「反右派闘争自体に誤りはなかったが、やり過ぎだった」と多くの「右派」の名誉回復を行った。「右派」と名指しされた数は55万人とも言われるが、定かではない。1966年から10年間にわたるプロレタリア文化大革命(文革)が中国国内含め国際的に膨大な研究が行われてきたのに比べ、反右派闘争の実態はいまだ明らかではない部分が多い。

毛沢東の大飢饉とは

反右派闘争で党内主導権を掌握した毛沢東は、「15年以内にイギリス、アメリカを追い越す」と宣言し、 1958年から、農業と工業の大増産をめざす「大躍進」政策をとった。しかし、現実を無視した手法と粛清 による権力闘争で大混乱を招き、折からの大旱魃も重なり、人肉食すら発生した人類史上まれに見る大飢 饉と産業・インフラ・環境の大破壊をもたらしたといわれる。その死者数は3年間で2000万~4500万とされ、「4500万人の死者を出した史上最も悲惨で破壊的な人災」と伝えるフランク・ディケーター著『毛沢東 の大飢饉』や「毛沢東の独裁とそれに追随する官僚機構の悲惨なる失敗を浮かび上がらせた」という楊 継縄著『毛沢東 大躍進秘録』など国際的に評価された歴史書がある一方で、「大躍進の時期に栄養失調で亡くなった人は最大250万人」「政策のせいではなく、自然災害で仕方なかった」と、それらに反論する中国内の声もいまだ根強い。

ワン・ビンと反右派闘争

“『鉄西区』のあとに、ある友人が一冊の本(楊顕恵の小説『夾辺溝の記録』)を僕に渡してくれました。 それは僕がパリへ向かう飛行機に乗る直前で、その本を飛行機の中で九時間くらいかけて読みました。読 み終わったとき、本当に悲痛な思いにとらわれました。そして、この物語を撮りたいという思いが沸いてき たのです。飛行機を降りて目的地に着き、部屋のベッドにしばらく横になって考えつづけました。この物語 を撮るべきかどうか。そして決心が固まり、北京の友人に電話しました。この本をぜひ映画化したいと言ったら、友人はとても喜んでくれて、すぐに天津にいる作家に連絡をとり、映画化の権利を交渉してくれました。こうして本を読んで一ヶ月後から『無言歌』を撮るという企画が立ち上がりました。”

“なぜ50年前のことを、今、撮るのか。この疑問を絶えず自分に問いかけてきました。『無言歌』ではたしかに、人間の本質とは、人間の尊厳とは、ということを考えました。しかし、それ以上に自分が一生懸命考えていたことは、歴史に対してどう向かい合うかということでした。歴史とは、それを記憶する人がいて、記憶してこそ歴史になり得るものだと思います。やはりある種、歴史に対する使命感というものを自分が感じているからなんです。『鳳鳴』も『無言歌』も同じです。”

*2011年、『無言歌』公開記念トークイベント(東京・渋谷)より