書き文字を持たないジプシーの一族に生まれながら、幼い頃から、言葉に惹かれ、文字に惹かれ、こころの翼を広げ、詩を詠んだ少女がいた。ブロニスワヴァ・ヴァイス(1910-1987)、愛称は“パプーシャ”。ジプシーの言葉で“人形”という意味だ。彼女は成長し、やがてジプシー女性として初めての「詩人」となる。しかし、その天賦の才能は彼らの社会において様々な波紋を呼び、その人生を大きく変えることになった……。
年の離れたジプシー演奏家との結婚、彼女の才能を発見した詩人イェジ・フィツォフスキとの出会いと別れ、古くから伝わるジプシーの秘密を外部にさらしたと彼らの社会を追放されたこと……『パプーシャの黒い瞳』は一人のジプシー女性の物語であり、同時に第二次大戦前後にジプシーたちが直面した史実を伝える。それはまた、20世紀から21世紀へ、世界が何を得て何を失ったのかをも私たちに問いかけている。
監督は、グディニャ・ポーランド映画賞グランプリに輝いた『借金』(99)、『救世主広場』(06)などで知られるポーランドの名匠クシシュトフ・クラウゼと、その妻ヨアンナ・コス=クラウゼ。戦前からナチスの時代、そして戦後ポーランドの誕生と、半世紀を越えるいくつもの時代を再現したモノクロームの映像は驚くほどに美しい。ことに大勢のジプシーが馬車で移動する姿を捉えたロングショットの素晴らしさは言葉に表せない。また冒頭のオペラ曲“パプーシャのハープ”に始まり、心沸き立つジプシーミュージックなど全編を彩る音楽の魅力も圧倒的である。