児童移民トラストは、1987年にマーガレット・ハンフリーズによって設立され、イギリスからの児童の強制的輸送(児童移民)の問題に対処している。児童移民は戦後の時期には、下は3歳の児童までもがカナダ、ニュージーランド、ジンバブエ(旧ローデシア)とオーストラリアへと送られ、1970年まで続いた。児童移民トラストは、オーストラリアとイギリス両国に登録された慈善団体で、カウンセリングや離散家族の再会を含む社会福祉サービスを提供している。イギリスのノッティンガム、オーストラリアのパースとメルボルンに置かれたオフィスでは、元移民と彼らの家族に情報を提供し、アドバイスやリサーチのサービス行っている。現在、マーガレット・ハンフリーズは児童移民トラストのディレクターを、夫のマーヴィン・ハンフリーズはプロジェクト査定者を務めている。
Webサイト:www.childmigrantstrust.com
児童移民は様々な動機によって行われていたが、そのどれもが、子供たち自身を最優先事項とはしていなかった。 従って、カナダの農場では便利な安い労働力として、オーストラリアでは戦後の人口を押し上げる手段として、旧ローデシアでは白人の経営エリートを保護する方法として見なされた。また身体障害のある子供や黒人の子供たちなどは国が受け入れず、特定のグループは除外された。この計画の初期の動機の1つには、大英帝国の民族的統一の維持という意味合いがあった。
(出典:児童移民トラストWebサイトより)
『オレンジと太陽』の原作ともいえる「からのゆりかご」には、次の記述がある。「日本のシンガポール占領とダーウィン爆撃がオーストラリアにかくも広大な大陸を守るだけの方策も人口もないという恐怖感を募らせてしまったのだ。入植がこの問題に対する解答だった。」1942年2月、イギリス陸軍は日本陸軍に敗北し、シンガポールは陥落。多くのオーストラリア兵も捕虜となった。同年2月から43年11月まで、日本海軍および日本陸軍はオーストラリア本土も空襲。この時の記憶から45年の戦争終結後もオーストラリアではアジアからの防護が叫ばれ、そのために白人の入植を政策とし、イギリスからの児童移民が促進されたという。
2009年11月16日、『オレンジと太陽』がイギリスで製作されている最中、オーストラリアのケヴィン・ラッド首相は国会議事堂のグレートホールで“忘れられた子供たち”に正式な謝罪を行った。
“我々は我々の国の歴史の中の醜い過去に対処するために今日ここにいる。そして我々は我々の国家としての謝罪を行うために今日ここにいる。我々は、承諾もなしに子供の時にこの島に送られた人々、家族から引き離された子供であり、幾度も施設で虐待された子供である“忘れられたオーストラリア人”に謝罪を伝えたい。その失われた幼年時代の悲劇、絶対的な悲劇に我々は謝罪する。我々の保護下にありながら、あなたがたに行われたすべての不公正を謝罪する。国家として、我々は今、本来受けるべき保護を受けてこなかった人々に対応しなければならない。真実は、これが醜い歴史であったということである。我々がこの過去の悪魔に全面的に立ち向かおうとするならば、我々はその醜さを公平に語らねばならないのである。”
*全文は下のWebサイトで読むことができます。
http://pmrudd.archive.dpmc.gov.au/node/6321
2010年2月24日、『オレンジと太陽』のオーストラリアでの撮影中、イギリスのゴードン・ブラウン首相は、イギリス政府に代わって議会で正式な謝罪を行った。
“1960年代の後半まで、イギリス政府は、長期間にわたって児童移民のスキームをサポートし続けていた。すべての元児童移民および彼らの家族に、我々は真に謝罪する。彼らは苦しんだ。彼らが最もか弱い年頃に国外へと送られていたことを我々は謝罪する。彼らを保護する代わりに、この国が彼らに背信的であったことを謝罪する。彼らの声に耳を傾けなかったこと、助けを求める彼らの叫びに気づかなかったことを謝罪する。そして、正当な完全かつ無条件の謝罪を行うこの重要な日を迎えるまでに長い時間が費やされたことを我々は謝罪する。”
(オリジナルプレス資料より)