監督プロフィール
ジョージアを代表する映画監督の1人。1928年、貴族の出身でボリシェヴィキの政治家であった父レヴァン(1896−1937)と、ジョージア映画黎明期の女性監督である母ヌツァ(1903−1966)の間に生まれる。
母ヌツァは1934年『ウジュムリ(Uzhmuri)』を発表。ジョージア初の女性監督による長編映画となった。父レヴァンはグルジア社会主義ソヴィエト共和国人民委員会議副議長(1923−1924)、グルジア共産党中央委員会第一書記(1930)などを歴任した政治家だったが、1937年にスターリンの大粛清により処刑された。それに伴い母ヌツァも逮捕され、およそ10年もの間、極寒地の強制収容所に流刑された。残されたラナは孤児院に収容されたのち、おばに引き取られ育てられ、成長後、強制収容所から帰還した母と再会する。
ラナは、トビリシ国立大学で哲学と英米文学を学び、1950年に卒業後、教職につく一方で翻訳家としても活躍。その後、モスクワの全ソ国立映画大学(VGIK、現・全ロシア国立映画大学)に進学。卒業後は故郷に戻り、ジョージア映画スタジオで勤務した。1961年には初の長編作品『同じ空の下で』を発表し、以降およそ60年のキャリアの中で10本以上の作品を監督する。多くの作品でジョージアの近代史・社会とそこに生きる女性の人生を重要なテーマとしており、キラ・ムラートワやラリーサ・シェピチコとともにソ連体制下の「女性映画」監督として知られた。特にジョージア社会における女性たちの生きづらさを描いた『インタビュアー』(1978)は高く評価され、西側世界でも広く名前が知られるようになる。1984年にはベルリン映画祭の審査員を務め、1986年の『転回』は東京国際映画祭で最優秀監督賞を受賞し、来日も果たしている。1988年にジョージア・フィルム撮影所所長に就任。さらに映画業界における女性のさらなる進出を目指す団体「キノ・ウーマン・インターナショナル(KIWI)」の初代代表を務めた。
1991年にソ連が崩壊し、ジョージアは独立を果たす。その翌年に公開された『ペチョラのワルツ』以降、ラナは長く映画製作から離れた。1992年から1998年まで、2期連続でジョージア国会議員に選出され、1999年から2004年まではジョージアの欧州議会大使、2004年には駐仏ジョージア大使に任じられた。2015年にはジョージア映画への長年の貢献を認められ、トビリシ映画祭でプロメテウス賞を受賞。そして2019年、27年の沈黙を破って本作『金の糸』を発表した。
私生活ではトビリシ・スポーツ・パレスなどの建築で知られる建築家ヴラディメル・アレクシ=メスヒシヴィリ(1915−1978)と結婚し、二女をもうける。そのうちの1人、本作のプロデューサーでもあるサロメ・アレクシ(1966−)も映画監督として活躍しており、ゴゴベリゼ家の女性監督の系譜を継いでいる。
エレネ
ナナ・ジョルジャゼ
Nana Djordjadze
1948年、トビリシに生まれる。1966年に地元の音楽学校を卒業した後、トビリシ国立芸術アカデミー建築学科に学ぶ(1972年卒業)。1968年から1974年まで建築家として働いた後、ショタ・ルスタヴェリ演劇学校に入学。以降、ラナ・ゴゴベリゼ監督の『インタビュアー』でインタビューを受ける女性の一人を演じたほか衣装や美術などで様々な映画に関わるが、監督を志し、1979年に『ソポトへの旅(Mogzauroba Sopotshi)』で監督デビュー。1986年の『ロビンソナーダ』でカンヌ国際映画祭カメラ・ドール(新人監督賞)を受賞。1996年に監督した『シェフ・イン・ラブ』はアカデミー外国語映画賞にノミネートされた最初のジョージア映画となった。1992年にカンヌ国際映画祭の審査員を、1997年にはヴェネツィア国際映画祭の審査員を務めた。夫は脚本家・映画監督のイラクリ・クヴィリカゼ(Irakli Kvirikadze、1939−)。
ミランダ
グランダ・ガブニア
Guranda Gabunia
1938年生まれ。1960年にトビリシのショタ・ルスタヴェリ演劇学校を卒業したのち、ショタ・ルスタヴェリ劇場の女優になる。1975年からはコテ・マルジャニシヴィリ劇場に所属。映画にも多数出演。ラナ・ゴゴベリゼ監督とのつながりは深く、監督の長編第1作である『同じ空の下で』(1961)以来、『転回』(1986)、『ペチョラのワルツ』(1992)など合わせて6作品に出演。夫はゴゴベリゼ監督の『同じ空の下で』(1961)などで共演し、テンギス・アブラゼ監督の『祈り』(1967)、『希望の樹』(1978)にも出演した俳優のオタル・メグヴィネトゥフツェスィ(Otar Megvinetukhutsesi、1932−2013)。2019年2月、『金の糸』の完成を待たずにトビリシで亡くなり、本作は彼女の遺作となった。
アルチル
ズラ・キプシゼ
Zura Kipshidze
1953年、トビリシに生まれる。1966年に映画デビュー。1970−1971年、ショタ・ルスタヴェリ演劇学校で学ぶ。その後モスクワに移り、1976年に全ソ国立映画大学を卒業。1976年からジョージア映画スタジオの俳優になる。ラナ・ゴゴベリゼ監督作品としては1972年に『アーモンドの花咲く頃』に出演した。他にもギオルギ・シェンゲラヤ監督『若き作曲家の旅(Akhalgazrda kompozitoris mogzauroba)』(1984)、ダヴィト・アバシゼとセルゲイ・パラジャーノフの共同監督作品『スラム砦の伝説』(1984)など多くの作品に出演。1997年にはロシア映画『ダンサーの時代(Vremya tantsora)』の演技でニカ賞(ロシア・アカデミー賞)助演俳優賞を受賞。2013年には第35回モスクワ国際映画祭の審査員を務めた。
撮影
ゴガ・デヴダリアニ
Goga Devdariani
ザザ・ルサゼ監督の『A Fold in My Blanket』(2013)やジョージア出身のアーティスト、ヴァジコ・チャチヒアニの映像作品『Cotton Candy』(2018)などで撮影監督を務める。2021年のドキュメンタリー映画『Taming the Garden』では高い評価を受け、米ワシントンで開催されているタコマ国際映画祭で撮影賞を受賞した。
音楽
ギヤ・カンチェリ
Gyia Kancheli
1935年トビリシ生まれの世界的作曲家。生涯に7作の交響曲の他、数多くの管弦楽曲や声楽曲を作曲。カンチェリの音楽には、アルヴォ・ペルトやジョン・ダウナーらに通じる民族性・宗教性の高さがみられる。地質学を学ぼうとしたが、ストラヴィンスキーの『春の祭典』に感銘を受けて音楽の道に進む。トビリシ音楽院でピアノと作曲を学び、1959年に卒業。1971年にルスタヴェリ劇場の音楽監督に就任し、20年間にわたってオペラを演出したほか、シェイクスピアやブレヒトなどの劇音楽を手掛けた。またエルダル・シェンゲラヤ監督『青い山 本当らしくない本当の話』(1983)、ゲオルギー・ダネリヤ監督によるソ連のカルト的SF映画『不思議惑星キン・ザ・ザ』(1986)など40以上の映画の音楽を担当。特にラナ・ゴゴベリゼ監督とは『アーモンドの花咲く頃』(1972)以降、『インタビュアー』(1978)、『夜より長い昼』(1984)など多くの作品で仕事を共にした。2019年10月2日にトビリシにて心臓病のため死去。84歳没。
プロデューサー
サロメ・アレクシ
Salome Alexi
1966年トビリシ生まれ。ラナ・ゴゴベリゼ監督の娘で、自身も映画監督として活躍している。トビリシ国立芸術アカデミーを卒業後、1988年から美術・メイク担当として映画・演劇製作に携わる。1996年、Fémis(フランス国立映像音響芸術学院)監督コースを優秀な成績で卒業。1998-1999年、ストラスブールの欧州評議会で勤務。2000年以降、トビリシとドイツのハンブルクを行き来して暮らす。主な作品に『幸福』(2009)、『Line of Credit』(2014)など。『幸福』でヴェネチア国際映画祭短編映画部門Special Mention賞、トリエステ映画祭短編映画部門Special Mention賞を受賞した。翻訳家としても活動しており、フランソワ・トリュフォーの『Le Plaisir des Yeux(邦訳未出版)』、ロベール・ブレッソンの『Notes sur le Cinématographe(邦題:シネマトグラフ覚書—映画監督のノート)』などをジョージア語に訳している。